○なぜパイプオルガンだったのか
パイプオルガンを習いはじめたのは、2003年の秋だ。私の人生における他のすべての重要な決定と同じく、なんとなくいいなぁと思って、始めてしまった。その頃住んでいた世田谷の町を歩いていて、たまたま入った教会の神父さまがとても優しそうで、たまたま鳴っていたオルガンの音が、とても暖かかったのだ。運命の出会いだった。
パイプオルガンというと、サントリーホールやNHKホールにあるような、最終破壊兵器みたいなやつを想像される方が多いかもしれない。でも、洋服ダンスくらいの小さいものも、けっこうあるのだ。私が好きなのは、そういう小さめのオルガンだ。アルト・リコーダーのような穏やかな音がして、安らぐ。
ちなみに、クリスチャンにもなってしまった。(カトリックです。)
運命の出会いって、オルガンと神父さまと、どっちに惚れたんだと言われると、かなり僅差で、神父さまだ。
厳格な信者の方からはヒンシュクを買うだろうけれど、クリスチャンでない方には、こういういいかげんな人間もいるということを知っておいていただいても、損はないと思う。(得もないけど。)
まあ、カトリックの司祭は妻帯してはいけないから、もともと望みはない。禁断の恋だ。しかも私の神父さまは、ただいま御年82歳。あまり、無理をさせてはいけない。
そんなわけで、オルガンの話。
2007年4月から2009年3月までの2年間、ドイツに住んだ。(じつはこの文章を書いている時点では、まだドイツにいます。)南ドイツのレーゲンスブルクという町の教会音楽学校に通っていた。
ヨーロッパでは、コンクールで競いあうようなソリスト養成だけでなくて、町の教会のオルガン弾きさんを育てる学校もあると聞いて、探した。そこで出会ったのが、レーゲンスブルクの学校だった。そこの校長先生、といってもまだ40代後半の溌剌とした方なのだけど、彼が来日なさったときに、お会いする機会に恵まれたのだ。
私は子どもの頃ピアノを習っていただけで、音高や音大で学んだ経験はない。オルガンも数年前に始めたばかりだ。そのことを正直にお話しすると、にこにこして「大丈夫、大丈夫」とはげましてくださる。その気になって、うっかりドイツに来てしまった。
それが、ぜんぜん、まったく、ちっとも、大丈夫なんかではなかったのです!!
ドイツ語と音楽、どちらも、死ぬほど大変だった。死にはしなかったけど、疲労のあまり、ジーンズを半分脱ぎかけたままで寝てしまったことはあった。
いちおう入試を受けて、正規の学生として登録してもらったけれど、もともと4年半の課程に、仕事の都合で2年しかいられない私は、卒業はできない。「音楽史」「宗教概論」といったドイツ語の講義もとても無理で、免除してもらった。それでも、とにかく科目が多い。宿題も多い。
たしかにレーゲンスブルク教会音大は、ソリストではなく、「町の教会のオルガン弾きさん」を育てる学校だ。ミサの間、歌の伴奏やBGMが弾けるようにしてくれる所だ。
名づけて「教会音楽家」、キルヒェンムジカーKirchenmusikerという。プロテスタント教会ではカントールKantorとも呼ばれる。かの大バッハもそうだった。
そう、もうおわかりのとおり、私がまぎれこんでしまったのは、ソリスト養成とは別の意味で、とっても本格的なコースだったのだ。
賛美歌の伴奏からして、楽譜がない。いや、あるんだけど、メロディーしか書かれていない。和音や装飾は、オルガニストがその場で考えてつける。
つまり、即興だ。
それに、「教会音楽家」の資格には、オルガニストだけでなく、聖歌隊指導者もふくまれる。実際に就職していくときは、どちらかの仕事が主になるけれど、学ぶ段階では両方を身につけなくてはならない。医学生が内科も外科もまんべんなく学ぶのと同じだ。
だから、授業には、オルガンのレッスンの他に、歌の個人レッスンと、合唱のグループレッスンと(たしかに「合唱の個人レッスン」はないよね)、合唱指揮のレッスンと、ピアノのレッスンがある。オルガンは既成の曲を弾くのと即興の両方で、合唱にはグレゴリオ聖歌と一般の曲(といってもアカペラの宗教混声合唱曲)があって、ピアノにもオーケストラ譜を見て弾く指揮者用の授業がある。
いちばん大変だったのが、トーンザッツTonsatzと呼ばれる授業だった。音楽理論なのだけど、机の上の知識だけではなくて、実技の宿題が毎週出る。
指定された賛美歌1曲に、特定の時代(1年生はルネサンスからバロック時代、2年生はバッハ様式等々)のスタイルで伴奏をつけてくる。与えられた課題(簡単なカデンツから始まって、2年生の1学期ですでにバッハの4声コラール)を、すべての長調と短調に移調して弾けるようにしてくる。この二つが、宿題の定番だった。
これを確実にこなしていくと、即興演奏ができるようになる仕組みになっている。完璧なプログラムだ。
プログラムは完璧なのだけど、私という素材が、ちっとも完璧じゃなかった。
歌やピアノのそれぞれは、日本の音大生さんに要求されるような超絶技巧ではない。正直に言って、「オケイコゴト」でしかピアノを習ったことのない私より下手な子が、けっこういる。でも、みんな、和音付けと移調の宿題は、ちゃんとこなしてくる。即興のレッスンも楽しんでいる。
この差は、何なんだろう。
「ドイツの音大に留学してきました」なんて言って、とんでもなくすごいことになってるんじゃないかと思われるといけないから、正直に書かせてください。
ぜんぜんダメでした。ドイツ語もオルガンの即興も、ホントにつっかえつっかえ、たどたどしくしか、できるようになりませんでした。
それでも、ほんのちょっとだけなら、進歩した。人類にとってはまったくどうでもいい進歩だが、一人の人間にとっては、大きな一歩だった。
前回、演技ワークショップの体験記を書いた。あんなの、1回だけでは、ホントはお話にならないのだ。楽器だって、私のへなちょこ即興で、たまたま素敵な音が鳴らせちゃうこともある。アマチュアで楽しむ分には、それでいい。
そうではなくて、いつでも人前に出られる、それがプロだ。プロになるには、どれだけの稽古が要ることか!
それが体でわかっただけでも、よかった。
私の芝居を見に来てくださっても、私が舞台の横でパイプオルガンを弾いているなんていう光景は、当分の間、ないだろう。ごめんなさい。まだまだ修行が必要だ。
それでも、いつの日か、子ども向けのクリスマス劇の伴奏をするのが、私の夢だ。洋服ダンスくらいのかわいいオルガンで。
さて、「なぜパイプオルガンだったのか」というタイトルについてだけれど、もうおわかりのとおり、とくに理由はない。
ホントに、冒頭に書いたとおり、「なんとなくいいなぁ」と思っただけだったのだ。まさかそんなアホな落ちじゃないだろう、どんでん返しがあるんだろうと期待して、ここまで読んでくださった方、本当にごめんなさい。
芝居も同じだ。「なんとなくいいなぁ」と思って、始めてしまった。
運命の出会いなんて、そんなもんじゃないかと思っている。と言うより、後でふり返ったときに、どうしても(または、なんとなく)やめられないで続けてきてしまったなぁ、いろいろあったけど、後悔はしてないなぁ、というものがあったら、それが運命なのだ。たぶんね。
(2008.12.29)
<付記>
レーゲンスブルク・カトリック教会音楽・音楽教育大学Hochschule für Katholische Kirchenmusik und Musikpädagogik Regensburg――。
池田理代子『オルフェウスの窓』に出てくる学校と同じ名前だな、と思った方もおられるかもしれない。そう、あのオル窓のレーゲンスなのだ。どんぴしゃり。
「運命の出会い」がテーマの(え、そうだったの?)今回の文章には、ふさわしい舞台だったかもしれない。
ただし、校舎がちょうど改装されてしまっていて、「そこから見下ろしたときに初めて目のあった人物と永遠の恋に!」という、伝説の窓はなかった。改装されたからなくなってしまったのか、それ以前の問題なのか知りたかったのだけど、誰に聞いたらいいのか、わかりませんでした。