<真夜中の突撃 2009.3.14>
今日は朝、学期最後のミサがあって、その後卒業証書授与式でした。
今年の卒業生は多くて、なんと6人もいました(笑)。
ミサでは、卒業するアレクサンダー君とトビアス君の作曲した曲を皆で歌い、やはり卒業生のベルナデッタちゃんとアンナちゃんがソロを歌いました。
グレゴリオ聖歌あり、ハイドン風あり(弦楽器伴奏つき)、現代曲ありで、皆が今までやってきたことの「総仕上げ」のようなミサでした。感動的でした。
いつも厳しい指揮の先生が、ミサの間中ずっと会衆席から、わが子の発表会でも見守るように、心配そうに少しお口を開けて見ていらしたのが、印象的でした。
私にとっても、かけがえのない2年間が、終わりました。
先週から今週にかけて、彼ら6人にとっては、本当に大変な1週間だったのです。教会音楽家コースの卒業試験は、たくさんある教科をすべてクリアしなければならないからです。
クライマックスは、一昨日の「合唱指揮」の試験でした。課題曲と自由曲が1曲ずつあって、コーラス隊をつとめるのは下級生の役割です。私も皆にまじって歌いましたが、同じ曲でも振る人によってこうも違うとは!そしてまた、自由曲の選び方が、それぞれ個性に合っているのです! 本当にわくわくする体験でした。4時間歌いっぱなしは、疲れましたけど(笑)。
ヴェルディのミサ曲を振ったローザちゃんは、「オルガンなら自分一人でがんばれるけど、指揮はしんどいからイヤ!」と文句を言っていたのに、本番では堂々たる指揮ぶりだったし、いつもひょうきんなフロリアン君は、自由曲に美しい葬送曲を選んでおきながら、「なんか縁起が悪いけどね、暗ーく歌うと音程が落っこって、天使さんたちも落っこっちゃうから、明るくねー」と、試験の席でまで笑いをとることを忘れないし。
ご存知でしたか? 私たちが歌っていた同じ日の、同じ時刻の頃、南ドイツ西部のシュツットガルトという都市では、学校で銃の乱射事件があって、生徒さんたちが15人も亡くなってしまったのです。犯人も、もとそこの生徒で、現場で自殺したそうです。まだ17歳でした。何もかもが、痛ましい事件です。
そんなことが起こっているとは、レーゲンスブルクのこの学校にいて、夢にも思いませんでした。本当に、みんな、泣けるくらいいい子たちなのです。
奇跡のように、祝福された2年間だったのだなと、改めて思いました。
以前、バッハの「平均律」について、ピアノの旧約聖書と呼ばれている、というお話が出ましたね。リヒテルが言ったのではなく、ビューローという音楽家だそうですが……。(ちなみに新約聖書はベートーベンのソナタだとか。)
なぜ「旧約聖書」なのかな、とずっと考えていました。
旧約聖書は、歴史と律法と予言の書です。つまり、今までなされたことと、今なされるべきこと、そして今からなされるであろうことの集大成です。たぶん、そういう意味でしょう。あるいは単に、ベートーベンと比べて古いからでしょうか。ビューローという人がどこまで深い意味で言ったのか、私にはわかりません。
でも、一つ、こういう事実があるのです。
新約聖書の中心はイエスの伝記ですが、その随所に「こうして書かれていたとおりのことが実現した」という記述が、くりかえし出てきます。つまり、受難へ向かうイエスの足どりの一歩一歩が、すべて、すでに予言されていたことの実現として位置づけられているのです。
この「書かれていた」というのが、旧約聖書のことです。
祝福、恐ろしい苦難、そして奇跡。
すべてが、すでに「書かれていたとおりのこと」として、わが身に起こるということ。
そこにあるのは、喜びも悲しみも超えた全肯定です。自分は、この「書物」のなかから出られない、あまりに小さな存在なのだという実感。そしてそこにすべてをゆだねる、哀しいまでに安らかな、幸福。
バッハの「平均律」を弾くリヒテルの表情に、その幸福を私は、たしかに感じます。
レーゲンスブルクに着いた当初、私は町を歩きながら、よく涙ぐんでいたものでした。あまりに幸福だから泣いているのか、孤独だから泣いているのか、自分でもわかりませんでした。たぶん、その両方だったのだと思います。
今日も、町を歩きながら、その感覚を思い出していました。
そちらはいかがですか。そろそろ暖かくなってきたでしょうか。
こちらはまだみぞれが降ったりしていますよ! 帰る間際まで、ダウンのコートは手ばなせそうにありません。
今日もいまからがんばって、荷作りです。