演劇・音楽・古典…「シアターユニット・サラ」を主宰する劇作家、実村文のサイトです。

<真夜中の突撃 2008.8.24>


(インスブルック古楽祭、ザルツブルク音楽祭の感想のメモ)

『聖アグネス』(オペラ)
 一幕は額縁のような枠を作って、普段着のフラヴィウスがその中へ入っていくというつくり。二幕は赤いロープが舞台を横切って張られていて、アグネスだけがロープの向こうにいて、他の人たちはアグネスに手がとどかない。どちらも美術館のイメージで、アグネスが触れがたいイコン(聖画)であることを表している。
 その赤いロープをくぐってフラヴィウスが奥へ入るとき、彼がある境界を侵犯したことがわかる。赤いロープはクライマックスでひきちぎられると赤い布となって広がり、アグネスの胸から流れる血を表す。常に壁に囲まれた空間だったのが、最後に奥の壁が倒れ、アグネスが後ずさりでわずかに昇っていくことで、彼女の昇天が表される。
 とても美しい「絵」だし、衣装や照明も印象的。歌手もオケもとても上手。何が足りないのだろう。
 おそらく、演出家の共感が、フラヴィウスにしかないのだろう。彼の、アグネスに触れられない苦悩はよく出ていた。他の歌い手たちも、ヒロインをはじめ、動きの少ない舞台でよく演技していたけれど、天井の高い額縁舞台で、パスクィーニの劇的というよりは流麗な音楽に、細かく肩をふるわせるような演技が何分も続くのは、違和感があった。感情が伝わって来ない。
 登場人物一人一人が何を言いたいか、というレベルのもう一枚上に、この芝居は何を言いたいかということがある。たとえ肉体を徹底的に破壊されても信仰は棄てない、というアグネスの思いを、アグネスの演技だけにまかせてはいけない。音楽があるからなおさら。
 演出家が、自分にとって、そして観客にとって、アグネスとは誰かということを、演出家自身の体と心でつかんでいないと、劇場全体を場としてつくることができない。舞台という額縁の中だけでなく、客席まで含めた時空間づくりでなくてはいけない…。

『群盗』(演劇)
 若い男優四人が群唱で、弟と父、兄と友人たちを演じる冒頭は出色。同時に発する台詞のタイミングが見事に合っていたし、前へ出ると弟、下がると父という演じ分けが、一瞬のうちに切り替わるのにも驚嘆。舞台全体を主人公(二人)の内的葛藤の場にするには適した手法なのだと、レーゲンスブルクの『白鳥の湖』も思い出して再確認。
 逆に脇役(恋人、父親、親がわりの召使たち)は早変わりをしない。「他者」の表象のほうが役者の身体性に依存していた。
 観客はカールあるいはフランツの一人称の物語に取り込まれる。
 対称的な兄弟が実はほとんど同一人物と看破したのは鋭い。だが一方で、シラーの原作ってホントにそれだけの話だったの?という疑問が残る。「愛されないボク」という物語が、ここでも再生産されているだけではないのか。
 凄いボリュームのロックの生演奏、ミニチュアの町を燃やしてスクリーンに映す仕掛け。面白いが、それによってつむぎ出されるのは、「愛されないからグレてやる」という男の子の物語。カールが盗賊になるのはそれだけの理由なのか。若いエネルギーのはけ口をバンダリズムに求めるだけなのか。
 このシーンで、中心の男優たちのうち二人は演奏、二人は舞台中央でケンカのマイム。このケンカが気になった。単に身体表現として美しくない。それなら様式的な動きをすればいいのか?バレエならともかく、演劇ではそれも浮くだろう。
 日本の舞台ではあり得ないくらいの「上手さ」がすみずみまで浸透している一方で、その「上手い演技」以外のオプションがないことに驚いている自分に驚く。
 能や歌舞伎の立ち姿とまでは言わない。何だろう。例えば殺陣の、斬り合いに入る前のかまえの体。ああいう体がどこにもない。なくて当然なんだけど、あったらどうなるんだろう?
 すみずみまで「上手い演技」で押し通されてしまうと、息苦しさを感じる自分は何なんだろう。
 Tさんの言う「舞台上で役を生きる」体と、私の思う「息苦しくない体」は両立できるのか。でも両立させなければ。
 結局私たちは、自分の見た「演劇的なもの」のイメージを再生産するしかできないのだろうか。恐ろしい不安。そんなことはない、と打ち消す。日本にだってそれまでにない舞台を作った人はたくさんいる。越えられる。それにはまず、相対化することだ。見たものに染められてしまうのでもなく、ひたすら反抗するのでもなく。何かが足りないと思ったら、その自分のむなしさを、よく記憶し、分析することだ。