演劇・音楽・古典…「シアターユニット・サラ」を主宰する劇作家、実村文のサイトです。

<真夜中の突撃 2008.8.12>


 オーストリアのインスブルックのバロック音楽祭に来ています。ヨーロッパって夏は劇場がみんな夏休み!なので、舞台を見るには演劇祭・音楽祭しかないのです。電車だし、言葉(ドイツ語)も料理(しょっぱい!)もほとんど同じなので、東京から京都に行くより差がないです(笑)。さすがに日帰りは無理で、一泊してますけど…。
 昨夜オペラを見ました。ヘンデルの「ベルシャザール」、古代アッシリアの傲慢な王様が天罰で滅びるっていうだけの話なんだけど、これが物凄く素晴らしかったのです!とにかくソリストもオケもコーラスもめちゃくちゃうまい。そして、もともと動きの少ない作品なのに、演出にまったくたるみがない!
 舞台はアッシリアの都バビロン。コーラスは、アッシリア人、バビロンを攻めに向かうペルシア人、バビロンの捕虜のユダヤ人を歌い分けるのですが、なんと出たままなのです。皆が薔薇色のリボンを取り出して額に巻き、腕を上げると希望に燃えるペルシア人。灰色の帽子をかぶりこめかみを押さえてうなだれると、一転してうちひしがれたユダヤ人になります。ただそれだけで!衣装も替えないの。その衣装が、Tさんにメールした水の服に似ている。たぶん木綿だよ。でも照明(これがまた、影をうまく作って見事!)によく映えて、時々透けるのが美しいの。洗濯できるのかな?
 ペルシア王(凛々しいカウンターテナー!物凄く上手い!)が、ソロを歌いながら、舞台中央奥から手前へゆっくりと歩いてくる間、コーラスは剣を抱いて、一人ずつ音もなく倒れていきます。それだけで、ペルシア軍の快進撃で、アッシリア軍が殲滅されていくのがわかる。ペルシア王が歌い終わって静かに周りを見回すとき、大量の犠牲者を出してしまったことを悲しむ彼の心の痛みが、ひしひしと伝わってくる。
 何より感激したのは、フィナーレで、暴君が死に、高潔なペルシア王によってユダヤの人々も解放され、皆が喜んで、神を讃える大合唱になるのですが、そのとき、なきがらになって横たわっていたアッシリア王も、やおら起き上がって冠を脱ぎ、いっしょにハレルヤ!と歌い始めたの!
 とにかく最初から最後まで、私が作りたいのはこういう舞台なんだ!と心で叫んでいました。ずっと手探りしているのは、役者とは誰なのか?ということなのです。『ジョナサン』で、Tさんが初めに出て来て、ふーって風になったでしょう?日常のTさんでもない、まだフレッチなどの役でもない、でも、すでに舞台の上で生きている「体」。冠を脱いでハレルヤと歌っているアッシリア王。「素」と「役」の間のこの体の美しさが、役者さんのいちばん大切なところだと思うの!なぜって、作品と、観客を、フィラメントのようにつなぐ体だからです。ああ、うまく言えないよ。
 私は、役者さんのその素晴らしさを、観客が感じられる舞台が作りたいのです。フィラメントになってもらうに足りる作品を書きたいのです。自分の書きたいことが先行するようではダメです。言葉が多すぎる!もっともっと誠実に、もっと謙虚にもっとならないとね!

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 「素と役の間の体」のことをずっと考えています。
 楽器は、必ず中が空洞だから鳴るんだけど、楽器を弾くとき、自分も楽器になったようになると良く(上手く、じゃなくて)弾けます。体の中が明るく空っぽになって、そこに音が響く感じ。よけいな雑念がつまってると鳴らない(笑)。
 歌うときは、響くのがメロディと歌詞の両方になります。枯れ野を行く旅人とか、恋する乙女とか(わはは(汗))、物語が入ってきて、それを生きることが始まります。
 朗読とか語りとかは、そこからメロディを抜いた体の状態じゃないかなと思う。
 その先に、「演ずる」=「役を生きる」体があるように思うのだけど、違うかなぁ?さらにエネルギーを上げた状態か、それとも新しいスイッチを入れた状態か、私には(まだ)わからないけど、「役になりきる」というのは、トランスみたいなことじゃなくて、体(ということは、魂)がよく鳴っている状態じゃないのかなぁ?
 昨夜のオペラのクライマックスで、バビロンに入城するペルシア軍の合唱のとき、私の席からよく見える位置の歌い手さんが二人くらい、少し泣きそうになっていました。美しかったです。彼女たちの魂が鳴っているのが聞こえました。私も泣いてたんだけど、まさか舞台から見えたわけじゃないよね(笑)?