演劇・音楽・古典…「シアターユニット・サラ」を主宰する劇作家、実村文のサイトです。

<真夜中の突撃 2008.4.20>


 昨夜また近所でバレエを観ました。モーツァルトのレクイエムです。じつはこないだトランジットで立ち寄ったアムステルダムでも、ベルギーの有名な(らしい)劇団の作品、バッハと現代曲を組み合わせた舞台を観ました。どちらもテーマとしては、人間の生と死と葛藤ということになります。なぜアムスのは退屈で、レーゲンスのは面白かったのだろう?

 私は自分が踊らないので、難しい動きをされてもその凄さがわからないので感動できないのです。むしろ、ただ腕をすっと上げたりするだけで充分美しいと思うのです。それがその場にかなっていれば。…というところまで考えて、気づきました。たぶん音楽!音楽をダンスのBGMにするか、それとも音楽のなかから劇的な要素をつかみだして、それを踊るかの違いじゃないかな?

 どんどん長くなってごめんなさい。たぶん「つながる」ということだと思うのです。アムスの舞台みたいに、どんなにソロやデュエットのレベルが高くても、パートごとに(音楽が)切れてしまうと、観ている方は疲れました。短いパートを組み合わせていくこと自体がいけないのじゃないのね。ただ、何度も息を止めさせられる感じがしたの。
 全体がつながっていること、長い息で(1時間を一息で!)考えること…芝居も音楽もみんな同じだね!難しいけれど。

 そうなんです、音楽にあわせた高度な体操。フィギュアスケートやシンクロ・スイミングとは、ダンスはやっぱりちがうよね?
 「抽象的なダンス」が私にはわからないのかもしれない。でも、「本当の自分が見えない不安」というようなテーマはあるようで、それがかえって陳腐に見えたのでした(アムスの舞台)。バッハは、軽い楽しみの曲でも機械的な練習曲でも、骨の髄まで「信仰」のしみた人なので、「上のほう」を念頭に置くことなしに、「不安」だけをバッハに乗せて踊ろうとしても、なんというか平坦になってしまう気がしました。その点レーゲンスのダンスは、「レクイエム」に真っ向からとりくんでいて、その果敢さが感動的でした。

 「レクイエム」は「死者のためのミサ」で、「ミサ」はいくつかの曲から成っています。レーゲンスのダンスは、それぞれを小さな物語にしたてていて、わかりやすかったのだけど、わかりやすくたっていいじゃない?と思いました。
 「わかりにくいこと」自体は偉くも何ともないと思う(笑)。
 例えば角の尖った金属の机がたくさんおいてあって、ダンサーたちはその間をぬって踊ったり、上で踊ったりするのね。それだけで、あの角にぶつかったらどうしようと思ってハラハラしどおしでした。(物凄く稽古したんだと思うよ。)そしてそれだけで、機械的ないまの社会で、「からだ」とか「いのち」とかがどれだけあぶないことになっているかが、ひしひしと伝わってきました。それが、モーツァルトのオーケストラや合唱と、またよく合っていました。人間て本当にはかないけれど一生懸命なんだと思いました。
 ダンサーさんたちは稽古、すごくしんどかっただろうなと思いました。体だけじゃなく心がです。踊れない観客だってそれはよくわかります…