演劇・音楽・古典…「シアターユニット・サラ」を主宰する劇作家、実村文のサイトです。

<真夜中の突撃 2009.2.20>


 私が危惧するに、その文通のお友達というのは、蘊蓄やさんなのではないでしょうか? たしかブルックナーの交響曲を全曲CDで聴かれた方ですよね?

 その方がどんなお手紙をくださっているのか、わかりませんが、かなりの確率で蘊蓄やさんなのではないか、と疑っています。ちがっていたらごめんなさい。

 そういうクラシック・ファンの方は、世の中に多いですけれども、私は、申し訳ないけれど、少し苦手です。何かの楽器でその曲を演奏し、楽譜を音楽理論的に分析できるのでなければ、どれほど多くのCDをご存知でも、印象論にしかならないと思っています。
 書くというのは、つねに分析をともなう作業ですから。

 でも、音楽のプロでないなら、別に学問的に分析する必要はないはずです。栄養士でないのに、リンゴのビタミンや水分含有率を分析する必要があるでしょうか?
 避けるべきなのは、印象論を分析と勘違いすることです。楽譜が読めなければ音楽について語ってはいけない、なんてことはぜんぜんありません。

 楽譜を分析せずに、自分を分析すればいいのです。リンゴの栄養構成ではなく、そのリンゴをおいしいと思った自分のほうです。
 なぜ、そのリンゴが、自分にとって、それほど忘れられない味なのか。
 お二人と私が、ザルツカンマーグートの湖畔でバスを待ちながら食べた、あのリンゴのように。

 出会いということなのではないかと思います。

 そのお友達が、ブルックナーについてお書きになることより、なぜブルックナーを全曲聴く気になられたのかということのほうを、うかがってみたい気がします。そこには、蘊蓄でも印象論でもない、決定的な「出会い」があったはずですもの……

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 そうなんです。ことほど左様に、音楽を「語る」のは非常にむずかしいのです。どうしても、音を色や形やイメージに置き換えた、印象、比喩になりがちだからです。そして、それには、あまり意味がありません。

 別の例をあげると、先日、楽典の授業で「共感覚」の話になりました。音が「見え」たり、色が「聞こえ」たりする感覚のことです。先生は、面白い現象だが、主観的なものにすぎない、と仰り、私もそのとおりだと思いました。
 先生にはハ長調が黄色、ホ長調は茶色のイメージだそうですが、私にとってはハ長調はブルーで、ホ長調はグリーンです。もっと具体的に言うと、私には、ハ長調は明るい藍でふちどられた白い琺瑯、ホ長調は暖かい草色のビロードのように「聞こえます」。
 面白いでしょ? ですが、面白いというだけの話です。他の人と共有できる体験ではないからです。

 という具合に、イメージで音楽を語っても、あまり意味はないのです。
 具体的なリアリティを獲得するとしたら、くりかえしになってしまいますが、「自分の体験」を掘り下げるしかないのです。私は、そういう作業で、日々苦闘しています!
 正直に、かつ正確に、というのは、非常に大変なことですから……