犬かもしれない

ドイツへ来たときは、「素敵なゲルマン男性とのときめく出会い」を期待していたはずだったのに、結局、清く正しく寂しい2年間を送ってしまった。
神さま、これは何かの罰ゲームでしょうか。私、前世で、どんな因業を重ねたんでしょうか。(キリスト教には「前世」も「因業」もなかった気もするけど…)

恋人はできなかったけど、なぜか、犬にはモテた。
2年間のうち初めの年、レーゲンスブルク教会音大は、昔は修道院だったという伝統ある校舎をちょうど改築中で、授業は、少し離れた所にある小学校に間借りしておこなわれていた。私の下宿からは、ドナウ川沿いに歩いて片道30分。並木道で、飼い犬を散歩させている人たちと、よくすれちがった。
ドイツの犬は、しつけがいい。加えて、ここバイエルン地方(南ドイツ)は、のんびりした土地柄のおかげだろう、犬までゴキゲンな子が多い。彼らに会うのは、楽しみだった。

目があっても、たいてい、ちょっとの間がある。しつけのいい犬ほど、ご主人のお許しなしに、よその人に愛想よくしてはいけないと知っているのだ。それでも目をはなさずに待っていると、向こうも嬉しそうな顔になってくる。それからが大変だ。飛びつかれて顔中をなめられたり、おなかを見せられたりする。飼い主もたいてい驚いている。
「動物は笑わない、笑うのは人間だけだ」と、ある著名な言語学者が断言していたが、彼はきっと、犬と遊んだことがなかったにちがいない。

小型犬でも年とっていれば落ち着いているし、体だけは大きくても、まだ子犬のこともある。そんな子に飛びついてこられた日には、おおごとだ。何度か、文字どおり押し倒されそうになった。
一度、はっとするほど美しいブルーの瞳のシベリアンハスキーが、道ばたで「大」のほうをしようと踏んばっているときに、目があってしまったことがある。ふきだしたいのをこらえて通りすぎ、しばらく歩いていると、かさこそと音がした。ふり向く間もなかった。次の瞬間、なんと、さっきのハスキー君が、いつのまにか私に追いついて、脇の下に頭を突っこんできたのだ。
思わず「あなた、さっきウンコしてたでしょ!ごまかそうたってダメなんだから」と日本語で言うと、「ないしょにしといてくださいよぉ」とでも言うように、顔をこすりつけてくる。背中に乗せて走ってくれそうなくらい大きいのに、やっぱり子どもなのだ。彼の照れくさそうな「笑顔」は、今も心に残っている。

あの頃、私は、ドイツ語ができなくて本当に苦しんでいた。クラスメートに話しかけられてもわからない。銀行へ行ってお金をおろそうとしても、どの機械のどのボタンを押せばいいのかわからない。途方に暮れた。
早口でぼそぼそと話すピアノの先生とは、たぶん次のような会話をしていた、と思う。
「君はどこでピアノを習ったの?」
「ええと、日本から来ました」
「ロマン派の曲はやったことある?」
「携帯電話ならありますけど…」

ヨーロッパの初夏は日が長く、サマータイムの午後9時過ぎまで、明るい光が残っている。部屋でシャワーを浴び、ベッドに腰かけて一息ついていると、窓の下の通りから、談笑する声が聞こえてくる。ドイツ語だ。何を笑っているのかわからない。汗が、すっとひいていく。

ゴキゲンな犬たちになぐさめてもらうたびに、考えた。もしかして、彼らは、私を仲間としてみとめてくれたのかもしれない。
彼らも、ドイツ語だけを話す人間たちのあいだで、「おすわり」「おあずけ」「さんぽ」なんていうわずかな単語を頼りに、サバイバルしている。

笑いごとじゃないんです。これには、血のにじむような集中力が必要なんです。何十分だろうと、とにかくじいっと聴きながら待つ。「さんぽ」という一言が聞こえて、みんながざわっと動きだしたら、自分もさっと立ちあがる。いや、音楽学校で散歩につれていってもらったことはないですよ。もののたとえです。
おかげで、集中力だけは身についた。たとえ何を笑っているのか一言も聞きとれなくても、喜んでいるのか、誰かの失敗を笑っているのか、苦笑なのかといったことは、わかるようになる。そして、それだけで足りてしまう場合も、けっこう多い。

話すほうもそうだ。日本語でなら、「本当にもうなんてお礼を申し上げたらいいんでしょう、こんなことまでしていただいて」とかなんとかくどくど言えることも、語彙がないから、「ありがとう!!」としか言えない。声も身ぶり手ぶりも総動員して、全身で伝えるしかない。ほとんど、飛びついて顔をなめそうな勢いだ。

おおげさにすればいいという意味ではない。大切なのは、伝えよう、聞きとろうとする集中力だということだ。あの演技ワークショップで教えてもらった、空気のかたまりのキャッチボールだ。あれは、舞台の上だけの話ではなかった。

ある日、いつもの川沿いの道を歩いていたら、大きなゴールデンレトリーバーが、向こうから、ゆっくりゆっくり、歩いてきた。
たぶん、とってもお年寄りなのだろう。でも、堂々とした風格だった。太陽を受けて、毛並みが金色に輝いていた。百獣の王、と呼びたくなるような威厳だった。
立ちどまって見とれていたら、たぶん同じくらいのお年の飼い主の紳士が、後ろから、やっぱりゆっくりゆっくり、杖をつきながら歩いてこられた。そして私を見て、
「人生になんの憂いもなし。これがバイエルン流の生き方だよ!」
と言い、微笑みながらゆうゆうと去っていかれた。

私は立ちどまったまま、一人と一匹を見送っていた。
老紳士の言葉が、理解できたのだ。
しだいに離れていく私たちのあいだには、一点のくもりもなかった。かたわらを流れるドナウも、輝いていた。

(2009.1.3)

<戻る​​​