俳優修業

自分の戯曲を演出したくて、演出家の修業をしようと決心した。理由は単純だ。稽古場にいたいからだ。
いったん演出家に渡してしまうと、戯曲は劇作家の手を離れる。その後は劇作家は蚊帳の外。ひとりぼっちでゲネプロまで待たなくてはならない。寂しい。

処女戯曲(って何度考えても凄い言葉だね)の初演の時は、演出家さんが寛大にも、稽古場に入れてくれた。舞いあがって、ついいろいろ言って、大ヒンシュクを買ってしまった。稽古場では、演出家が舵を握っている。そこへ横から手を出されたら、船が大揺れするのは当たり前だ。
思い出すたびに、冷や汗が出る。演出家さんも俳優さんたちも、よく許してくれたと思う。いや、ホントは許されていないのかもしれない…。

演出家の立場からすれば、劇作家なんていうものは、シェイクスピアみたいに死んでくれているのがいちばんありがたいだろう。でも、申し訳ないことに、私はまだ生きている。
それなら、自分が演出家になっちゃえ、と無謀な決心をしたわけだ。

さて、演出家になるには、どうしたらいいのでしょう?
作・演出・主演をこなす世の多くの劇団主宰の方々からの、何をアホな~、というツッコミが、脳内空間にガンガン響いてくる。でも、ホントに、どうしたらいいかわからないのです。私は、ある日天のお告げを受けて(ウソ)突然戯曲を書きはじめるまでは、劇場になんてろくに足を運んだことがなかったのだ。

演出家の方は、たいてい、俳優か舞台監督・演出助手などの修業を積んできている。まずは私も、女優修行から始めることにした。こういう変なダンドリを踏みたがるのが、私のバカなところだけど、バカなんだから、しかたない。

私の女優歴は、小学校の学芸会でストップしている。5年生のときの役は「村の子ども3」で、台詞は2行しかなかった。3年生のときの演目は「さるかに合戦」で、私の役は「牛のフン」だった。クリにはぜられハチに刺されて、ほうほうの態で逃げ出してくるサルは、戸口を出たところで、牛のフンを踏んですべる。そこへウスどんが上からとび乗って、大団円。なのだけど。
牛のフンですよ、牛のフン。これでも、女の子なのに。

台詞をもらった記憶はない。「そうだ、そうだ」くらいは言ったかもしれない。演技といっても、手足をちぢめてうずくまっていて、サル役の子に踏まれるだけだ。
しかも、お面を自分で描かされた。画用紙で輪っかを作ってかぶれるようにして、そこにそれぞれの役の絵を貼りつけるのだ。黄色と茶色と黄土色のクレヨンをにぎってぐるぐる回しながら、「同じ茶色なら、クリがよかったな」と悲しくなった。
クリ役は同じクラスのカオルちゃんで、みつあみのおさげの似合う、文句なしの美少女だった。お嫁さんにしたい女子ナンバーワンでもあった。どう見ても、勝ち目はなかった。

それでも、やっぱり楽しかったのだ、「さるかに合戦」。踏まれたって、牛のフンだって、舞台の上では平気なの、かもしれない。それだけは、心に刻まれている。

そんなわけで、牛のフンも、新たな成長をめざして旅に出る。親友の女優さんの勧めで、ある演出家のワークショップを受けることになった。ロシア国立サンクトペテルブルグ演劇大学演出学科(5年制)出身。本場仕込みの、才能あふれる演出家さんだ。

彼の教えてくれた身体訓練法を、「レーチ」という。スタニスラフスキー・システムによる「声の訓練」だ。例えば、片腕をなめらかに動かしながら、同時に言葉を発する。一人でではなくて、演出家さん(または先輩の俳優さん)が呼びかけ、こちらがそれに応じるかたちだ。はじめは「むもまめみ」といった意味のない単語で、そのうち、台詞の一部が混じってくる。
「むもまめみ」
「むもまめみ」
「私、怒ってます」
「私、怒ってます」
「わたしは~」
「わたしは~」
「おこって~ますぅ~」
「おこって~ますぅ~」
これを10分も続けられると、もう息が上がってくる。台詞に感情をこめるなどという邪念はこなごなに砕かれ、ひたすら受けとることと投げ返すことだけに、体も心も集中していく。強烈な圧力の空気のかたまりで、キャッチボールをしているようなものだ。

ワークショップのテクストは、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』だった。若く美しい継母のエレーナと、地味な娘のソーニャ。ずっとぎくしゃくしていた二人が、初めてうちとける場面だ。
ペアを組ませていただいたのはベテラン女優のAさん。目もとがぱっちりして、ドキドキするほど笑顔のきれいな方だ。彼女がエレーナ、私がソーニャを当てられた。
エレーナが部屋に入ってくる。顔をそむけて出て行こうとするソーニャ。エレーナが呼びとめる。
「ソーニャ!」
「なんでしょう?」
「いつまでこんなことを続けるつもり? もう、やめましょうよ。」
そんなところから始まるシーンだ。

演出家さんは私たち二人に、それぞれ少し離れた所に立って、思いつくままのことを声に出して言い続けるよう指示した。エレーナのAさんに言う。
「あなたは年とった気むずかしやの夫を夜どおし看病して、疲れはてている。近所ではよそ者あつかい。ここで義理の娘にまで無視されたら、もうどこにも居場所がないんだ。」
ソーニャの私に言う。
「あなたは先週の日曜日、教会から出てきたときのことを思い出している。近所の奥さんたちがウワサしているのを聞いてしまったんだ。『ソーニャは本当にいい子よね』『ただ、気の毒なのは、あんなに不器量だってことなのよ』。」

私は懸命に「ひとりごと」を始めたけれど、すぐにストップがかかってしまった。
「それじゃ、自分の状況を言葉で説明しているだけだ。無理に話そうとしなくていい。『不器量、不器量』とくりかえすだけでもいい」
私は必死でくりかえした。「不器量…不器量…」

とにかく、サルに踏まれる以外、演技というものをしたことがなかったのだ。これから書くことは、俳優の方々にとっては当たり前なのかもしれないけれど、私にとっては初めての体験だったので、記念に書かせてください。
不思議な感覚だった。予想していたものとはちがっていた。トランスしてソーニャに「なりきっちゃう」などというのではなく、反対に、異常な集中力で、自分を見つめていた。あえて言えば、楽器を弾くのに似ていた。

私はパイプオルガンなどという、ちょっとめずらしい楽器を習っている。そのことは別の場所でまた書こうと思うけれど、とにかく、パイプオルガンというのは、簡単に言うと、次のような仕組みになっている。たくさんのパイプ(金属製や木製)が立ち並んでいて、列ごとに音色がちがう。大きなふいごから風が送られてくると、オルガニストは音色を選んで、その列の栓を引き出す。選ばれた列に風が流れこんで、音が鳴る。

不器量、不器量、とくりかえすうちに、体の底から強烈な風が吹き上げてくるのがわかった。ソーニャは十七歳だ。十七歳の頃のくやしさ、悲しさ、なさけなさを、自分の心のなかに探した。「栓」を見つけて、引き出していく。稽古場の反対側では、Aさんが、エレーナの「栓」を引き出そうとモノローグをつづけている。

演出家の合図で、エレーナが入ってきた。私は、顔をそむけて出て行こうとした。呼びとめられた。
「ソーニャ!」
強烈な空気のボールが飛んでくる。こちらもありったけの力で投げ返す。
「なんでしょう?」
エレーナはずんずんと歩いてきて、私の前に立った。
「いつまでこんなことを続けるつもり? もう、やめましょうよ。」

彼女の顔は、涙にまみれていた。その目にまっすぐ見すえられて、身動きがとれなくなった。私が今までの人生で傷つけてきた、すべての人と重なって見えた。彼女の声が、私のなかで全開していた、苦い感情の栓をぱたぱたと閉め、かわりに、新しい栓をつぎつぎと引き出してくれるのがわかった。一瞬の出来事だった。
私の頬にも、ぽろぽろと涙がこぼれた。自分でも、びっくりしてしまった。
びっくりしながら、台詞を言う。
「私も、ずっと、なかなおりしたいと、思っていたんです。」

聞いたこともない、自分の声だった。これって私の声?とさらに驚きながら、さし出された腕のなかに顔をうずめる。Aさんのトレーナーに、私の鼻水がついてしまった。エレーナは、声を立てて笑いだした。

(2008.12.28)

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