脚本家の責任

最近、「インプロヴィゼーション」(即興)による演劇というものが、流行っているらしい。役柄と状況設定だけが与えられて、あとは、台詞も動きも役者がその場で考えて演じるというものだ。もともと芝居の稽古にはよく使われてきた方法だと思うが、それを作品として舞台に上げてしまうところが、おもしろい。

こんなことされたら脚本家は上がったりじゃないか、とは思わない。わくわくする展開になるような役と状況を設定できたら、それだけでもう立派な台本だ。そのうち、そういう台本も書いてみたい。

音楽にも、即興演奏がある。以前、バロック音楽の即興アンサンブルというものに参加したことがある。リズムと和音の進行だけ守れば、何をしてもいいのだ。私は歌で参加しただけで、へなちょこだったけど、楽しかった。ソプラノが多すぎるなと思ったら、とっさにアルトに移る。装飾音が足りないなと思ったら、入れてみる。そういう、他の人とのかね合いやかけ引きに、夢中になった。

とはいえ、他の人が書いた作品を楽譜どおり歌ったり弾いたりするのも、やっぱり楽しい。キース・ジャレットみたいな即興ができれば別だろうけど、楽器も歌もへなちょこな私は、よく考えて書かれた作品を、「どうしてこんな曲が思いつけるんだろう?!」と感激しながらなぞるほうが、好きだ。

だから、演劇の話にもどると、自分も、「脚本」としてわざわざ書きつけるなら、誰もがその場で思いつけるようなものより、もう少し練った台詞を書こうと思う。役者さんにしゃべってもらう価値のある台詞だけを、書きたいと思う。
思うは易く、行うは難しだ。でも、母の言葉を借りれば、「思うだけなら、タダだから」。(お母さん、何度も引っぱり出してすみません。)

少し前までは、脚本なんて、大して重要じゃないと思っていた。謙遜のつもりだった。舞台を成功させるのは、何よりもまず役者さん(と演出家さん)(と音楽や美術やその他もろもろのスタッフさん)の力だと信じていた。
そのこと自体は、今も信じている。

でも、やっぱり、脚本は重要だ。いい役者さんが、ダメな本を懸命にカバーしようとしているのを見るのは、つらい。申し訳ない。あっちゃいかんことだ。それなら、はじめから何も書かなければいい。役者さんにまかせて、インプロをしてもらったほうが、ずっといい。

脚本は、一つの枠組みだ。そのなかに、演ずる者も見る者も引きこまれる。引きこむなら引きこむだけの、自覚と責任を、脚本家は持たなければならない。なんだか今日の私は、とても立派だ。どうしちゃったんだろう。

ブレヒトは、観客には舞台に対して距離を持たせるべきで、お話のなかに埋没させてはいけない、と言った。そのとおりだと思う。そして、それは私が今書いていることと矛盾しない。ブレヒトだって、「僕のこのお話にはちゃんと距離をとって見てよね」という枠組みに、観客を引きこんでいることに、変わりはないのだ。

枠組み、という言い方は、あまり適切でないかもしれない。演劇は、時間の芸術だ。始まりがあり、終わりがある。始まりと終わりがあるからには、方向性がある。固まった枠よりは、流れのイメージだ。

方向性と言ったって、「ワタシはこれこれこう思います」という弁論ではない。それは、野暮というものだ。何も舞台でやる必要はない。ブログでも書けばいい。

そうではなくて、方向性というのは、「こういう世界の見方ってどうだろう?」という問いかけだ。具体的には、「この人たち(登場人物)がこういうことを言ったりしたりするって、どうだろう?」という問いかけだ。作者自身は、このキャラクターのように行動してみたいとか、こういうこと言うから墓穴を掘るんだよなとか、救いがたいバカだと思うだけど自分も同じことをやっちゃうかもしれないとか、とにかく人間って哀しいよねとか、それぞれに答えを持って書いてるんだけど、もちろん、観客の全員が同じように考えるなんて、あり得ない。それでいいのだ。

ときどき、「どう受けとるかは観客の自由だ」などと言う作者がいる。これも、野暮というものだ。そんなこと、わざわざ言わなくたって、当たり前だ。お客さまは、お金を払っている。お金を払って受けとったものを、煮て食おうが焼いて食おうが、自由に決まっている。

空前絶後の超難解な問題作を書けるような天才ならいざ知らず、私みたいな凡人が、「どう受けとるかはあなたの自由です」なんてうそぶくとしたら、それはまちがいなく、作品のなかに「これってどうよ?」という問いかけを書きこまないことの言い訳だ。「これってどうよ?」を書きこんでしまうと、「ちがうだろうがよ!」とぶんなぐられる危険がある。私は臆病だから、ドキドキする。でも、書かなきゃね。書いて、なぐられて、ナンボなのだ。

これは、あくまで、比喩です。本当になぐりに来る人がいたら、逃げます。

「これってどうよ?」というのは、役者さんがその場で思いついて言っているわけではない。書いたのは、私だ。責任は、私にある。「ちがうだろうがよ!」って言われるかな、「そのとおりだよ!」って言ってもらえるかな、とドキドキしながら待つのは、なかなかスリルがある。このスリルは、インプロヴィゼーション演劇では、味わえない。

(2008.12.26)

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