リアルとは何か

『「リアル」だけが生き延びる』(平田オリザ著、ウェイツ、2003年)という題の本がある。素敵なタイトルだ。まったくそのとおり、と思う。
ところで、「リアル」って何だろう。

またもや同じ著者なのは、偶然だ。私は平田先生を尊敬している。いろいろ、見ならいたい、あやかりたいところだらけだ。
ただ、平田先生のこの本や他の著書では、「リアル」というものが、わりと自明のこととして話が進められているので、ちょっと立ちどまって、「リアルって何だろう?」と考えてみたくなっただけだ。

アメリカ演劇史、いや二十世紀の演劇史に名を残す演出家、ハラルド・クラーマンは書いている。
「あらゆる舞台はリアルでなくてはならないが、あらゆる舞台が『リアリスティック』なわけではない」(Harold Clurman, On Directing, New York: Fireside, 1972, p33)
「リアリズムもひとつのスタイルであり、しかも演劇史上、比較的新しいスタイルである」(同上)

私自身、「リアリズム」な演劇というのは、特殊だと思っている。つまり、舞台の上で「日常」を「自然」に「再現」する、という方法だ。
おおぜいに注目されながら、あたかもまわりに誰もいないかのように、お父さんでもない人に「お父さん」と言いながらさりげなくお茶を淹れたりするって、考えたらものすごく「不自然」なことじゃないでしょうか。そんなことないでしょうか。私はあがり症で、人前に出るとおそろしくハイテンションになってしまう。いっそ、「ワーイ」と叫んでわざとらしく走りまわったりするほうが、「自然」だ。「さりげなく」なんて、大変だ。

チェーホフとスタニスラフスキーが百年前に始めたことの偉大さのひとつは、この大変なやり方をあえて選んだところにある、と思う。

「リアル」と、「リアリズム」は、ちがう。
後者は表現のスタイルの一つで、前者は、あらゆる作品がめざさなければならない何かだ。クラーマンの書いているとおり。
だから、リアリスティックな舞台じゃなくたって、リアルは実現できる。実現しなくてはならない。はずだ。と思う。きっと。

もちろん、身近な題材を淡々と掘り下げていくリアリスティックな作品も、私は好きだ。そういう作品も書いてみたいのだけど、なかなか書けない。母親の影響があるのかもしれない。うちの母は、私が髪を切って帰ってくると、「同じお値段なら、どうしてもっとたくさん切ってもらわないの?」と言うような人だ。(関西人です。)そういう親に育てられたおかげで、「同じお値段なら、なるべく普段見られないものを」という作風になってしまったにちがいない。

しかも、「象徴的で簡素な舞台装置」と言えば聞こえはいいが、ようするに「なるべくお金をかけない」「バラシが楽」。それで荒唐無稽なファンタジーや時代劇やSFをやりたいというのだから、われながら、ムシがいい。
でもまあ、やりたいんだから、しかたない。つきあわされる役者やスタッフこそ、いい迷惑というものだ。(他人事のように言ってますが。)

数年前に、ある舞台を見た。私の日常生活とは、かけ離れた作品だった。
同じ町のなかの近所なのに、姪がおじさんの家にどうしてもたどり着けない。お父さんが、息子のランドセルに向かって、えんえんと話しつづける。誕生日のお祝いの電話をもらったおじいさんが、受話器に向かって、「え? 何? 聞こえないよ。今、家の横をミサイルが通っていったから」と叫ぶ。

会場は笑い、そして胸をつまらせた。あまりにも「リアル」だったからだ。
パレスチナから来た劇団だった。
姪がおじさんの家にたどり着けないのは、壁と検問所のためだ。
お父さんは息子のランドセルから、りんごをとり出して語りかける。「あんなに食べたがっていたから、やっと見つけて持たせたのに、どうして食べなかったんだい?」小さな息子はその日、学校の帰りに流れ弾に当たって死に、ランドセルだけが家族のもとへ帰ってきたのだ。

ある作品が「リアル」だというのは、「自分の日常に近い」ということではない。その作品をさし出す側と、受けとる側が、日常生活のちがいの壁なんかをぶちぬいて、近づける、ということだ。相手の心臓の鼓動が聞こえるところまで。

だから、「リアル」をみみっちく、ちっちゃく限定することは、つまらないだけでなく、危険だ。私たちの想像力そのものを、ちっちゃくしてしまいかねないからだ。
電話をしている横でミサイルが炸裂したり、朝は元気で出ていった子どもが二度と帰って来なかったり、そういう日常を生きている人々は、この世界に、現に存在する。その事実を忘れたくない。

他者の「リアル」にとどこうと、想像力の手をのばす。どんなにのばしても、足りるということはない。

(2008.12.26 / 2017.11.29 revised)

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